大学時代に

 「絶対なんてまやかし」
  「絶対」なんて言葉は大嘘だ。もっと言うならば「誓う」や「必ず」って言葉もだ。なんでかって?1分後に大地震が起きて瓦礫にうまって死ぬ可能性もある、予知できぬ未来のことなのにどうしてそんな約束ができる?。言ってみれば、それこそ無責任きわまりないものでしょう。
  そんなことがおきるわけないって思います?。だけど本当にとんでもないことは、突如やってくるものなのですよ、あなた。阪神大震災なんていい例です。誰が予測しました。そして、最初は情報が少なく、だんだんあとになればなるほど、その大きさを知る。予測がつかないものなんです。おまけに言うならば、阪神大震災の前日にそこを通って、僕は高校の修学旅行で長野に行ったのですよ。でっち上げとお思いなら、大分県の大分豊府高校の8期生をしらべてごらんなさい。あと1日遅く出発していたら、この世にいなかったかも知れないぐらいです。
  要するに、人間の分際で未来に絶対なんて保証できない。それに、僕の経験で「絶対」というのは全部果たされていない。「たぶん」「きっと」「したい」というのは殆ど実現か当たってはいるけど・・・。
 なにかの本で「口に出したとたんに、それは嘘となる」というようなことが書いてあった。僕はそのとおりだと思う。本当に大切なことは口で説明できるような、たやすい構造をしていないものだ。もっと奥深くて複雑で・・・だけど、それを口にすれば意味がその言葉の意味に限定されて、それ以上の意味を持たなくなる。だから、僕は「絶対」の約束が嫌いだ。「絶対」と言った時点でそれは嘘となり、嘘をついた代償として果たされることはない。因果応報というやつだろうか。天の法則に従い、嘘をつけばそれ相応の代償を支払うというのは。
 だから、キリスト教の結婚式ほどウソッパチなものはないと思う。「あなたは彼女を生涯愛し続けることを誓いますか?」「はい」・・・・アメリカの離婚率のなんと高いことよ。この時点でウソだとわかる。愛してるなんて言葉で・・・人の想いをたかだか「愛」の一言でくくってくれるなよ。そんなものじゃないだろう。このような言葉の矛盾は他にもある。
「隣人を傷つけることなかれ」・・・・アメリカの銃犯罪で死ぬ人間の多いことよ。
「偶像崇拝することなかれ」・・・おもいっきり十字架拝んでるし(笑)
「いうことなかれ」・・・アメリカの文化は言うことで始まるものだ。

 だから、私は将来私の恋人となる人には、なにがあっても「愛してる」などとは言わないだろう。あまりにもくだらないし、嘘にしたくないからだ。それよりは行動で示したほうがよっぽどいい。空手でもよくあることだ。自信がないものほど口数が多い。弱い犬ほどよく吠える。想いは胸に秘め、ただ行動あるのみ。
 ・・・・女の子は聞きたいんだろうけどね。その言葉を。ただ、僕は言わない。それを理解してくれる女性に出会いたいものだ。

余談だがキリストの教えを一番守っていた国は、実は日本人だったりもした。今は違うが明治時代ぐらいの皆さんの想像の世界でもいいですから、思い浮かべていただきたい。テーブルの上に他人の財布があっても、盗らないでしょう? 愛してるなんて時代的に言わないですし、偶像崇拝も日本にはこれといった固定された宗教がなかった、言う事なかれはそのままですね。100年前に新渡戸稲造が「BUSHIDO」を書いた気持ちがよくわかる。 


 「友とは・・・」
   友とは・・・・厳しいものだと思う。
 僕は、友というのは人として同じレベルでいられるから、友でいられるのではないかと思う。
 人は、どんなことでもいい、何かに頑張ってるときは、その人の格というものはあがり続けているものだ。何かにいっぱい頑張った人の顔つきが違って見えるのはよくあることだ。  
 そして、その歩みを止めたときに、成長という名の道から外れてしまう。
 今、同じレベルの人が3人いたとして、2人が自分の分野で頑張り、1人はなにもしなかった場合、1年経ったときにその1人は他の2人と友人でいられるだろうか?。1人のほうが自分の情けなさで卑屈になって壁をつくるかもしれない。2人のほうが1人の情けなさにあきれて、おいていくかもしれない。僕はどちらかだと思う。
 いつまでもお互い小学生のままの価値観の人間というのはいないだろう。成長があってこそ、お互いを友として認め合える。
 では、年齢が違っても友はいる。これはどういうことか?。要は、そのときのレベルではない。前回に会ったときからの成長率なんだと思う。どんな時にも、次に再開するときに無意識でもお互いの成長を認め合っている。だから友でいられる。
 もし、その成長することの歩みを止めたとき。その人は友でいられなくなるのかもしれない。
 友とは厳しいものだ。

 「再考、友とは・・・」
   今まで・・・・友とは「レベルが同じ、類が同じ」なら一緒にいて、レベルがかけ離れれば自然と離れ、おなじ道の新たな友が出来ると信じていた。いや、まだ信じているのだろう。
 しかし・・・友とはそういうものなのだろうか?そういう駆け引きなしに、気軽に休まるのが友ではないのだろうか。「成長しているから友でいられる」「友である資格がある」この考えは間違いなのか正しいのか。



 「老成。(大人とは?)」
   「大人になったねー」
俺の一番嫌いな言葉である。
「まだ子どもだね」
この言葉もヘドがでるほど嫌いな言葉である。

 この言葉、人同士の意見が対立したときに、逆上して感情を剥き出しにした人間に向けられるらしい言葉であるが、一番いやみったらしく聞こえ、自分がさも大人であり上の人格であるかのように思わせることばである。
  「最近の若い人間は穏やかにしていることが人格者であることと思っている」と吉川英治は「宮本武蔵」の中で書いたがまったくそのとおりだと思う。
 考えてもみよ。かの孔子でも必死に努力して、「四十にして不惑」なのである。孔子以上の天与の才があれば話は別だが、歴史に名を残せるかもわからない者が、必死にならずしてどうして人格者になれようか。 幸い僕は武道を通じて例をあげられるから、あげてみよう。
 僕の道場の師範は、剛柔流空手道8段である。全国の中でも15人いるかいないかの高い技術をもつうちの一人であられる。僕が入門した当初、先生の動きはそんなに上手いようにはみえなかった(先生、すいません)。それよりひとつ年上のF先輩のほうがすごいように思えた。ちなみにその先輩は高校3年の時(僕が高校2年)に全国で優勝するほどのレベル。そして、先輩は就職でいなくなり6年が過ぎ、その先輩にすこしでも追いつこうとやってきて、2000年6月ようやく九州で3位まできた。この頃にはもうわかってはいたのだが・・・、道場の先生はものすごくレベルが高いということである。当然、日本一になった先輩よりも遥かに上だということである。その九州大会で、先生が優勝した人を呼んで、アドバイスをしていたが、先生のほうが「遥かに」上手く見えるのである。自分もそれを理解できるレベルにあがってきたということか。それはともかく、要するに「レベルの高いものは、下からみたらわからない」のである。遥か空高くあるものが雲に隠れて目に見えないように、下のものからはその高さがわからないのである。 もっと身近な例では書道だろう。良いと呼ばれる書は凡人から見たら落書きにしか見えないだろう。しかし、レベルがあがれば、その良さが見えてくる。そして、その域の書を素人が真似をして書いても、遠く及ぶことはない。
 人格者と呼ばれる人も、そう呼ばれるようになるまでは若い頃は激しい時代があったはずなのだ。その落ち着いた物腰を、そういう方たちの3分の1も生きていない私たちが、どうして身に付けられよう。
 僕はこれを音で説明する。周波数の低い音から、周波数をあげると高音域になってうるさいだろう。しかしそれをさらに超えると逆に音が聞こえなくなる。だが音が「ない」のではない。そこにたしかに「ある」のだが音は聞こえない。聞こえるものは同じでも質は全く違う。天地の差がある。
 このことは小さな子どもを相手にしたときに良くわかる。僕はあくまで空手で説明するが、実力のない先輩には後輩はついてくることはない。しかし、その内に確かな実力があれば、なにも言わずとも、子どもは自然とついてくるのだ。不思議なことに。
 これらのことを考えたら・・・、人格というものは、感情をあらわし、その積み重ねによって、練り上げられていくものだといえる。楷書、隷書とクリアして草書にはじめてなるのである。その過程の大きな振幅が、やがて人を穏やかにしていくのであって、おだやかに振舞おうとしている人間にはなれるものではない。そう振舞おうとしている、あなた。ひょっとしたらあなたたちは将来をどう見つめるのでしょうか・・?